hanamishitaiの日記

感じたことをつらつらと。

わがまま娘

 

 

この事を唯一話した友人がいる。

 

その時に初めて人に、「お前の親は親に向いてない」と言われた。すごいびっくりしたし、人の親に向かって何言ってるんだこいつは。なんて思ったけど不思議とすっと入ってきて気難しい親なんじゃなくて親に向いてない人だったんだと不思議と納得できた。

 

 

人間関係に関しては素のままでいるよりも少し馬鹿に見えるようにしておいた方が円滑に進むと思ってる人間だし、自分が耐えられればいい、仕方ないと思う側、バイトでも同じ給料でサボる人間がいても私がやれば早いからいいと我慢する側。

 

でもそれを偉い、頑張ってると自己肯定感を満たすためにやっているだけで実際はそうでもなく、偉くとも、凄くもないわがまま娘なんだ的な事も言われた。

 

 

正直悲しかったし、言われて嬉しい言葉ではなかったけど、他人から見ればこう見えるのか、悲劇のヒロインぶっているように見えるのかと理解した。

 

 

 

もうなんかそれでもいい

わがまま娘でも悲劇のヒロインでもなんでもいいから普通の生活が送りたい。

 

 

特にお金がほしい、広くて大きい家に住みたい、犬を飼いたいとかいう欲も持たず。

 

ただ、罵声が飛ばない、静かに穏便に平凡な日々を送りたい。

 

その為に私はバイトをしてお金を貯めて少しでも早く家を出て親子関係を断ち切ろうと努力している。

 

そうすれば、少し自分を好きになれるかもしれない。

 

離婚が決まったその後

 

 

まずは別居という形に取る事になった。

それはそれでよかったのだが、「お父さんがいないから代わりに貴方がやって」と書類関係は私がすべてやる事になった。

 

家は生活保護を受給していたので受給証明書やその他の書類などを役所まで取りに行かなければいけない日々だった。学校終わりに向かうと間に合わないので、早退して向かったり、遅刻して向かったり。

 

母親が飲んで暴れた際には何をするか分からなかったので家にいて監視していた。

 

最初は離婚するまでの我慢だと思って過ごしていたが、いっぱいいっぱいになってしまい、私に甘え過ぎじゃないか、私の負担がどれだけあるのか、と話をした事もあった。

 

だが、母親は私も大変なんだ、お母さんの気持ちを考えてほしい、お母さんは大変なんだから手伝うのは当たり前じゃないか。

 

と言われてしまった。昼まで寝てる母に。

 

とても悔しかった。

 

 

終いにはバイトしてるんだから今月の家賃払ってと家賃を払う羽目になってしまった。

 

 

 

父親も父親で300万近くの負債があり、家族カードを勝手に使い込んで50万近く使っていた。流石にそれは見過ごせないから毎月引かれる1.5万ずつ返すように私が話をつけて毎月返済している。

 

給料も27万ほどあったのに実際は10万ほどしか給料もらえなかったと言って10万しか渡さなかった。外食費も出先で買う煙草代も全部母親に払わせていた。

 

給料が27万あったのは給料明細を見つけたから。

ちゃんとコピーを取ってある。

 

ちょっとした事でキレる、沸点が低い。

態度が気に食わない、電話に出なかった、食事が言っていたものと違う等で父親の気が済むまで説教が続く。

 

今までは難しそうな言葉を使っていたので誰も言い返さなかったが、私が言い返すようになったら黙るようになった。父親は高校中退の中卒で私はもう高校を卒業している。

 

学歴的にも知識的にも上なので対等に会話ができるようになった。「金の事は気にしないで好きに進学しろ」と言ってはいたものの、学費なんて1円も出していない。全て自分で出している。こういう人間だ。

 

 

離婚したらもう関わらないし、二度と合わない、と父親本人の口から出た。だが急に仕事場が近い時などは家に来る事になった。それに我慢ができず最初の時と言ってる事もやってる事も違う、自分の行動と発言に責任を持て。と話をしたところ、沸点が低い父親は乗っかってきて、ああもういいよ出ていってやるよ、もう家の事何もしない。と言ってこちらを追い詰めたような気になっていたが、私としては父親がいなくても生活できるよう必要な書類も全て準備していた。

 

私はそれでも構わない全然大丈夫だ、と、受け入れたけれど母親は、父親に頼みたい事もあるし来てもらってもいいんじゃないか?と父親側に付いていた。

 

 

父親と離婚したいって言っていたのに。居なくても生活できるって言ってたのに。その為にたくさん準備をしてきたのに。

 

 

延々に反対してたら、ついにわがままじゃないかと言われてしまった。もうこの家はだめだと思い、じゃあ父親が今後も家に来る代わりに私は遅くても社会人になるまでの2年間で家を出る。その事を口出しをするな。という約束で決着がついた。

 

 

 

結局はここまで高校卒業が危うくなりながらも家の為に尽してきた自分を捨てられたのだと思った。

 

 

結局は都合よく使われただけだった。

家庭。~中高生編~

 

母親からの虐待は小4の頃には自然となくなっていた。

 

特にきっかけ等はなかった。

 

中学に上がると同時に引っ越しをして、誰1人知り合いがいない中学へと進学した。

 

入学してからも小学校の友人とは連絡を取っていて、一緒に遊んだり通学したりしてる事がとても羨ましかった。

 

別に馴染めなかったわけでもなかった。普通になかのいい友達はいたし、いじめられたというわけでもなかった。

ただ、何故かしんどかった。毎日学校に行くのがしんどかった。頭悪いように馬鹿みたいにふざけて冗談を言って友達と接するタイプを演じて(?)いた。そっちの方がこの学校は生きやすいんだなと思って勝手にキャラ作りしていたんだと思う。

 

でもだんだんそれも限界が来て、学校に行けなくなった。行けたとしても通学途中に吐いてしまった。

 

それがきっかけで前に住んでいた引っ越しをしなければ通うはずだった中学へ編入した。

 

そこからは、喋りたい人とだけ喋り馬鹿っぽいキャラを演じるのはやめた。中学でできた友達とは今でも連絡を取り合ってるからよかったと思ってる。

 

高校ではそんな自分を変えたいと思い、誰も知り合いがいない高校へ進学した。厳密には1人いた。想定外だった。

 

高校は学力が低く、指定校推薦枠が多い為、指定校推薦を取って進学しようと決めて入学した。

 

けれどそんな事もできなかった。

 

高1までは割と順調に事が運んでいたのだが、高2から崩れ始めた。

 

高2の夏に虫垂炎になってしまい、欠席日数が増えた為指定校推薦が取れなくなってしまった。規定の欠席日数を超えてしまったのだ。

 

まあそれは考慮される場合が多いからと安堵していたのだが、その頃からより一層家庭が荒れ始めた。

 

母親も父親もお酒を飲むとその時の事を忘れる事がある為その時言われた言葉やされた事も私自身は覚えているのだが相手は覚えていない。

 

この時から私は絶対にお酒も煙草もやらないと決めた。

 

両親が外で飲んで酔っ払って徘徊してた私服警官に声を掛けられた際に暴れて、3時頃に警察署まで迎えに行った事もあった。

 

両親が喧嘩をする度に離婚だ、と喚く事がほとんど。その度にこちらに飛び火が来て投げた物を片付けたり、愚痴を聞いたりというのが日常だった。

 

何度も私は離婚してほしいと懇願していたけれど通らなかったのだが、ついに離婚が決まった。(仮)

家庭。〜小学生編〜

 

 

私の両親が毒親であるというのは最近知った。

他所の家よりずれてるのかな、片親は外国籍だしそういうものなのかな、とずっと思っていた。でも違った。

 

両親がいて、私がいて、弟がいて。私は長女。

 

物心がついた時から学校帰りは特に遊ばず家で食器を洗っていた、ご飯を炊いていた、洗濯物を畳んでいた。初めて放課後に学校の友達と遊んだのは小2の時。ちゃんと親に許可を取って遊んだ。

 

両親は共働きだったからそれは当たり前の事で仕方ない事だと思ってはいたけれど、今思い返すと小学校の頃からおかしい点がいくつも思い浮かんだ。

 

 

私は未だに爪噛みの癖があるので深爪で、足の爪を噛む事はなくなったけれど未だにむしってしまい、足の薬指と小指の爪が黒い。保育園の時に爪を噛んでる写真が残っているのできっとその頃からまだ治ってない。いろいろ試した。口に含むと苦い透明なマニキュアをしても、服の袖を口に含んで袖越しに噛んでしまう、スカルプネイルをしても勝手にスカルプを剝がしてしまう、ある程度まで伸びたとしても気づいたら噛んでいる。

 

もちろん今でも治ってないのだから小学校の時も爪を噛んでいた。

 

爪を噛んでいるのがばれた時、言う事を聞かなかった時などにもちろん怒られた。けれど今思い返すと、叱られ方が異常だった。

背中をむき出しにされてベルトでむち打ちのように叩かれる、木べらや孫の手等で体を叩かれる、スクワットの途中の体制で母親がいいと言うまで耐える。母親いわく「ペナルティ」らしい。

 

ベルトはちゃんと革のベルトだったし、木べらや孫の手が壊れて使い物に無くなった時は、大きい業務用の定規の時もあった。スクワットは毎回40分〜1時間近くしていた。

 

家のゴミ捨て場のゲージの中に入れられた事もあった。

 

 

当時の私は泣きじゃくりながらごめんなさいごめんなさいと言っていたのを覚えている。

 

父親は知っていたけれど「お母さんを怒らせたのが悪い」と言われた。今でもその当時の話題は出るけれど両親2人揃って笑いながら、「そんな事もあったね笑 懐かしいね笑」と言っていた。こちらからすれば笑えるわけがない。「それ虐待じゃないの」と言ったところで「あんたたちが悪い事したんだからおこっただけ」と言われるに違いない。

 

もうこの頃からおかしい。

 

今でも父親(中卒)と口論になる際は、私の場合だと私の方が学歴も知識も上で口で言い負かす事ができなくなったのか父親が引いて不機嫌になるが、弟に対しては罵倒して父親の気が済むまで終わらない。父親がつばをふっかけた事もあった。

 

母親は物を投げる。叩く。わめく。叫ぶ。基本的に父親も母親も自分の事しか考えない人種達なので熱が冷めるのを黙って待つしかない。

 

父親も弟同様に母親に接しているので、母親も父親を嫌っている。現在は別居という形を取っているが頻繁に来ている。まだ籍は入っているが離婚するらしい。離婚した後も家に度々来るらしい。離婚後は来ない話だったのにまた急に変わってしまった。何故そうなったのか、その経緯も綴りたい。

 

この間はナスが完全に焼けていない、皮が向けない、などといちゃもんをつけ機嫌が悪くなって母親に文句を言っていた。

 

その度に後に母親が父親の愚痴を私に言ってくる。それが非常に面倒なのでその場で私が父親に反論をした。「人にご飯作ってもらっておきながらナスの焼き方がどうとか文句言うのは違うんじゃないの、自分だってやってもらって文句言うなら自分でやれとかいうんだから自分でやればいいでしょ」みたいな事を言った気がする。何このくだらない会話。結局父親の愚痴を言われたけど。

 

 

まずはこんなところで。

 

他にも綴りたい事がたくさんある。

 

なぜ私が家庭の軸になっているのか、今現在どういう状況なのか、なぜ母と父は仲が悪いのか、こうなってしまったのか、また明日にでも綴ろうと思う。

 

1500文字を超えてしまい、流石に長かった。こんなに長くするつもりも無かったんだけども思い返していくうちに長くなってしまった。

 

それと同時にすこししんどくなってしまった。

 

何故始めたのか。

目覚まし時計がうるさい。

2019/02/23 5:33:15

きっと父親の目覚まし時計の音だろうけど、うるさい。

 

何故ブログを始めたのかというと、別に誰かに発信したいわけでも自分の文章力を高めたいわけでもなくただ自己顕示欲を満たす為なのかもしれない。

 

今までは俗に言う「裏垢」でツイートをひたすらしていた。フォローしてる人もフォロワーもいないガチな感じの裏垢でつらつらとただ自分の感じた事だったり悲しい出来事だったり発散したいけどできない思いをTwitterを利用していた。

 

今現在も利用しているけれど私は一度に長文を打ちたいのでブログで発散できれば、と思ったのが第一。

 

それに加えてミーハーだからみたいなところも無きにしもあらず。

 

一度考え出すと止まらなくてずっと沈んだまま2、3時間過ごしたり、外に散歩に出かけて感傷に浸っていたりする日々を送っている。ちなみに学生です。

 

私の家庭は所謂「毒親」であると最近知った。肝心の両親が軸でなければいけないはずなのに、その軸が今自分である事、もうこの生活に限界が近い事、最近それが原因なのかは知らないけれど体の調子が悪く胃酸を嘔吐してしまう事が度々ある事。

 

人に相談するにしても相談した側はスッキリするかもしれないけれど、相談を受けた側は割とエネルギーを使う物だと気づいたのでこのブログで思いの丈を綴れればと思った事。

 

思った事、しんどい事、嬉しかった事等綴っていければ。それで少しでも自分が楽になればという自己満足で開設しました。